字面からすると旧家である有路氏の邸宅だと推測ができますよね。有路と記して「ありじ」と読み、この地域堺田村の庄屋を務めた家柄でした。そして庄屋の住宅だけという事のみならず、問屋として、街道筋の宿としての機能を有していたことが住宅の構造から推し測ることことができます。奥の細道において出羽国に向かっていた松尾芭蕉と曾良が大雨のためこの地に2泊したとされ、「封人の家」と綴っておりこの場が国境の要衝の地であったことが伺えます。付近は出羽街道中山越といった旧街道で歴史の道として整備されております。